神は細部に宿るの巻頭言

とりあえずブログ再開。たぶん今後はいくつかに分けて書く予定。そのうち別のところも公開する機会があるかと。というわけで、今日はブログタイトル「神は細部に宿る」にした背景を簡単に。

コピーにも命がけ

X Japanが再結成し、復活コンサートを行う。解散前は何度か東京ドームに見に行ったこともあるので、是非とも行きたいと思っている。


久々に、DAHLIAを聞いた。DAHLIAを聞くと、高校生の頃の友人を思い出す。


彼は、X Japanコピーバンドをやっていた。ドラマーだった。彼のドラムはとても丁寧で、レベルが高かった。年がら年中、授業中でも、何かを叩いていた。騒がしかった。


彼が、DAHLIAをコピーするとき、一番こだわったのは、自分のツーバスの叩き方でもなく、ギターの重ね方でもなく、Bメロからサビにかけて打ち鳴らされる、鐘の音だった。


とにかく、あれを再現したい!と、いろんなところに行っては、鐘の音を集めていた。別のジャンルの楽器ですら、叩きまくった。しまいには、何か金属棒を買ってきて、自分で共鳴させるものを作り出していた。


「何をやってるんだか。そこまでやらなくていいんじゃない?まず先にちゃんとした演奏ができないとさ」と僕は言った。


彼は言った。「この曲さ、作るの6億円かかってるんだよ。ずっとさ、何十、何百とテイクを重ねてさ、TOSHIなんて『血へど吐くまで歌え!!!』って火をつけられて歌って、1音1音を完璧に作ろうとしてるんだよ。それだけ気合いが入ってる。その曲をさ、演奏ももちろんひとつひとつ丁寧にするんだけどさ、そういう細かい所にまで、作った人の意図が現れてるんだから、コピーであっても、そこを再現しなくちゃいけないんだよ」


へーそんなもんか。としか思わなかった。


彼らのライブで演奏されたDAHLIAは、完璧なドラムと、ちぐはぐなギターと、そして正直ちょっと「間の抜けた」感じの鐘の音が鳴り響いていた。他の音はよく聞こえなかった。それでも、彼の再現したい!という執念みたいなものは感じたような気がする。

一番深いところまで潜って、そこから浮上してくることに意味がある


今になって彼の言葉はすごかったなあーと思う。僕より10年は大人だったわけだ。


仕事をしていて、そういう局面にぶつかることがある。それこそ今の仕事は、純粋な知的労働であり、正解なんてないし、何を出しても納得さえされりゃいい。すると、ともすると手を抜いてもどうにかなる側面はある。


しかし、それじゃあいけないんだと思う。たとえば、組織を変えましょう!というアドバイスをするとき、同じ概念図でも、概念レベルだけで考えたものと、実際に現場の誰がどういう風に動くのか?まで練ったうえで、概念図にまで抽象化するのとでは、厚みと、説得力が、全然違うと思う。


それは別に今の仕事じゃなくたってなんだって一緒だ。国を動かすのだって、たとえ戦争をするのだって、どこまで細部にわたってイメージし、検討と可能性を探り、深く潜って潜ったうえで、大方針を決めたり、何かを動かしたり、物事を作り上げていけるかどうか、というのがカギになる。


どこまで、深く潜れるか?それを、これからここで考えていきたいと思う。


ちなみに、DAHLIAの彼は、今でもセミプロ?か何かでドラムを叩いている。今は全然違うものを叩いているけど、とても楽しそうだ。